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宇宙は広大ですね。星がたくさんあって、地球はその一つに過ぎませんね。その星々に関する言葉をいろいろご紹介しています。 宇宙は約137億年前に生まれたと推定されている。といわれているみたいですが、137億年以前はどのようになっていたのでしょうか? この地球に人々が生きているということ自体ちょっと不思議な感じがしますね。それはよろしくお願い致します。
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2007/11/26 日記<地動説>
地動説
地動説(ちどうせつ)とは、地球が動いている、という学説のこと。ニコラウス・コペルニクスが唱えた。天動説に対義する学説である。太陽中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。歴史
古代の地動説
古くアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。しかし、コペルニクス以前にも、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところではピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。また、プラトンも善のイデアである太陽が宇宙の中心にあると考えていた。特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことだ。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。ほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった。カール・セーガン著 木村繁訳『コスモス 下』 P.49 史上初の地動説 ISBN 4022602708 広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。これらは初期地動説とも呼ばれる。 天動説の優勢
2世紀にはクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化し、以後コペルニクスが登場する16世紀までこれが支持された。プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだ。こうして日常的な生活に関する限り、天動説があれば特に不自由はなくなった。とはいえ、おかしなところは存在した。例えば
などが挙げられる。しかしなかなかそれらの現象を説明をでき、精密な惑星の位置予報のできる新説は現れなかった。また、ヨーロッパではギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。こうした理由で、科学的な難点を含みながらも、16世紀に至るまでずっと、天動説は支持された。
大航海時代
天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。大航海時代以前、航海は沿岸航海であり地の見える場所しか船を運航しなかった。何も目印のない大海原では、行き先が分からず、航海もできなかった。しかし羅針盤の登場がそれを可能にし、磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったのである。しかし当時の星表には問題がかなりあった高橋訳『天球回転論、誰も読まなかったコペルニクス』。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。さらにもう1つ問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていた。キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になっており、10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず約300年間放置されていた。当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年(回帰年)の定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量でアルマゲスト、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。
コペルニクスの地動説
カトリック教会の司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。
コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。(1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる)コペルニクスは没年にあたる1543年、思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。このことが、コペルニクスが(科学的な意味での)地動説の創始者とされる理由である世界大百科事典。またこの業績について、ガリレオ・ガリレイには「太陽中心説を復活させた」と評された。
コペルニクス以降の学説
その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年にグレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は利用されなかった。(ただし、プトレマイオスの天動説も使われてはいない。)しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた。(コペルニクスの月の運行理論は、アラビアとは独立に再発見したという説もある)
コペルニクスの地動説
理論
コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、全惑星(地球を含む)の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される(実際の距離は、この時代にはまだ分からない)。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値がそれぞれの値と関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう『コペルニクス革命』。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である。(この時代、天王星や小惑星はまだ発見されていない)公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きの説明がつかず、コペルニクスの著書では、プトレマイオス説でも使われていた離心円が運動の説明に使われた。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはなかった。(実際にはコペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった)
科学的方法論
コペルニクスの時代、天動説で説明し切れないような天文現象はほとんど存在しなかった。(ときおり観測された彗星を除く)現代科学では主に、説明のしきれない現象を説明するために、新たに学説が登場する『科学革命の構造』。しかし、コペルニクスの説の登場の仕方は、明らかにその後の科学体系の構築の手順とは異なっている。
コペルニクス後の地動説
コペルニクスの後、地動説に同意する天文学者はなかなか現れなかった。しかし、当時の学者がより古いものを正しいものと考え、新しいものを排除しようとした、というのは若干史実とは異なる。支持者が多く現れなかったのには明確な理由があった。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかったからである。計算に必要な値も、著書のあちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であった。当時の多くの天文学者が欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。その後、1551年に、エラスムス・ラインホルトが、コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった(実際には、わずかだがプロイセン星表のほうが誤差が小さい)。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が平行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表にとって変わられたと主張している。それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。似た他の方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説を使用しても、同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の絶対性は大きく揺らいだ。ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった。ケプラーはブラーエの助手であり、師の膨大な観測記録から1597年、独自の正多面体仮説を唱え、惑星軌道が楕円軌道である事を発見し、コペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。当時、コペルニクス説の発表から50年以上経っていたが、はっきりと地動説に賛同した天文学者は、結局、ケプラーとガリレイの2名のみであった。
地動説と日本
徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でヨハネス・ケプラー|ケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。医者の麻田剛立が1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。
地動説のもたらしたもの
地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を科学革命の時代とも言うのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。今でも「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である。 ※ これ以降は「ガリレオ裁判」として別項に分割することを提案します。
ガリレオ裁判
ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。代表的なものは木星の衛星で、この発見はもし地球が動くなら、月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測。太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。地動説を唱えたガリレイは、1616年と1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。* この裁判の詳細は、ガリレオ・ガリレイの項目を参照のこと。
ガリレオ裁判以降
たとえガリレオが異端の判決を受けたとしても、当時のローマ教皇にはイタリア国外での権力は事実上なかった。ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。コペルニクスの説はその主張に反して周転円を含む不完全なものであったので、ケプラーは観測記録などからこれを楕円軌道に修正した。さらに『ルドルフ星表』を作り、1627年、公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥が何故取り残されないのか、地球が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化することにより、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となったのである。蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリック教会|カトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた。
地動説と宗教
地動説の解説の際、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害された、という主張がされるが、これには異議をとなえる意見もある。このため、両論を併記する。
迫害されたとされる理由
反論
これに対し、地動説への迫害と思えるものは、単にガリレオがイタリア内での権力闘争に巻き込まれたためで、ガリレオを迫害するために地動説が理由に使われただけだという主張もされる。この理論の根拠は次のとおり。* コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである。
地動説が批判された理由と考えられているもの
出典
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